何者にもなれない私と、それでもきっと何かにはなれる私
矛盾しまくりなんですけどね。
きっと私は歌がうまかったり骨格から華奢だったり目が大きくてお人形さんみたいだったりとそんな芸能人やアイドルのような存在にはなれない。
外国まで名が届くような人にはなれない。
東大に行ったり外国の大学に行ったり、
お金持ちの家に生まれたりとそんな人にもなれない。
それでも、私史上最高は更新し続けられる。
私が思っているよりは私はもっといろいろできるし、将来はわからないし、
自分の中では何かを積み上げていけるのだ。
できないと思っていることにも、少しくらいは近づけたりするのだ。
ふところ
自分に自信がない時期は、
他人の粗が目につく
他人を拒否する
その上で勝った気になる
自信なんて日々の積み重ねでしかつかないし、
自信がなくとも踏ん張って立って進んだ経験でつくものだし。
いうてみんな自信なんてなくて、
それでも自分の足で立って進まないといけないのだ。
決めてやり切るのだ。
その上で色んな人がいるのは当たり前で
色んなやり方があるのも当たり前で。
まずは自分を肯定して受け入れよう。
形や在り方を限定して、それに当てはまらないのは全て拒否してしまうのはもったいない。
ふところは広い方がいいね
前へ
いろんな状況になった友だちと会って、
私の選択はこれでよかったのかとも悩むけど。
選択で全てが決まるのではなく、その後の行動でどうにでもなる。
だから、進み続けよう。
もやもや
同じことをやりだした人が増えて嬉しいのではなくもやもやするのは、
やりたいけどきっかけがつかめないと思っていた人たちの気持ちがわかるから。
少人数でやっていたときの特別感が失われたような気持ちになっているから。
他の人も頑張っているのだという事実を目の当たりにして焦るから。
他の人が学んだ内容を自分もキャッチアップしたり励みにしたりするためではなく、自分の特別感に浸る道具としていたから。
他の人と自分を比べてしまっていいねの数や学んだ内容の差に劣等感を感じるから。比較してしまうから。
要は、自分が今やっていることを精一杯やっているわけではないことや、学生気分がまーだ抜けていない自意識の甘さを自覚していて、自分に自信がないだけ。
仕事だから皆頑張っているのは当たり前。
皆成長しているのも当たり前。
私もいい刺激を受けて、自分なりに成長するのだ。皆で頑張ろうという空気のある会社であることを喜ぶのだ!
はいぞく
最初の人数が少ない状態に慣れていて、
特に自分の部署にはほとんど配属はないだろうと思っていて、
二重の特別感にちょっと酔っていたから
今の新人さんがいっぱい配属されてきていて、自分の部署にもたくさんはいるかもしれないという状態をあまり受け止めきれていない。
特別感に酔いすぎていて、別に特別でもなんでもないという現実を受け止めきれていない。
課題の進捗が今日は良くなかったのとか、他の人が輝いて見えるのもあって今日はちょっとグレーな気分。
人数が多かろうが少なかろうが、別にやることは変わりゃしない。
配属先も変わるわけではない。
私のやるべきことはさっさと研修課題を終わらせて、与えられた業務で成果を出すこと。
そのためにまずは残る1つの研修課題に全力で取り組み、今月中に修了する。
ついさっき友達と「今後は自分のことじゃなくて会社のこととか全体のことを考えていけるようにならないときついよね」って話したばっかりなのに、自分のことばかり考えている。
地元にて
生まれる場所と育つ場所は選べない。
それでいて、それら場所には苦い思い出が詰まっている。
楽しかった記憶以上に、今ならもっとうまくやれるのになという苦い記憶。
だから、地元に帰るとあのころを思い出して少し複雑な気持ちになってしまう。
あのころから少しは成長できたのだろうか。
そう思いたいが、本質はさして変わっていないのだろう。
悔やんでもやり直せない物事ばかり。
そもそも、あのころがあって、もがいたからこそ今の自分がある。
今の自分だって、前より少しはマシになったかもしれないが数年先の自分から見ると恥ずかしいことばかりだろう。
人に優しく。
自分に優しく。
全てを受け入れて必死に生きるより他ないのだ。
そして、望もうと望むまいと私のルーツはこの地元で、この家族なのだ。
初心
仲間の舞台を観に、一泊二日で鹿児島まで行ってきた。
ダンスに歌にと仲間がさらにパワーアップして輝いている姿が見れてよかった。
社会人になったことで土日に(しかも今回は大半が通いで!!)練習を行う凄さに感服した。ましてスタッフまでやるのは凄い。
いい仲間と久しぶりにたくさん会えて良かった。
よく実現したよなあ。
夢を見て他の人を巻き込みながらそれを実現する力。
みんな、たくさん頑張ったんだろうな。
演出の違い。交わりを喜んでいた人が武器を渡され戸惑いながら戦争に出る。
交流を放置したことが”取り返しの付かないこと”であったのなら、一体どうしたほうが良かったのだろう。そのまま国境を維持したほうが良かったのだろうか。
フラ難しかっただろうな。
最後が理想像とか幸せな未来図、おとぎ話における「そうして美奈は楽しく幸せに暮らしたとさ」みたいなファンタジー感は意図したものだったのかな。途中がもっと繋がっていれば現実感も出たのかな。
舞台にもう立ちたいとは今のとこもう思わないけど(人間関係の面倒臭さとか、配役や立ち位置なんかに対して自分がもやもやしてしまうことが嫌だ。それも含めて社会の週図なんだろうけど) ダンス習いたいな。体動かしたい。ダンスもっとうまくなりたい。
みんな以前にもましてステキな人になっていた。
私ももっとステキな人になりたい。頑張るぞ。楽しむぞ。
そしてそんな素敵な人達から貰ったメッセージを久しぶりに見返した。
素敵な言葉をたくさんもらっていた。
特に
「それぞれの立ち位置でエースになろう」
私が以前言ったことを忘れていた。エースはたくさんいるんだ。輝き方はたくさんあるんだ。
みんながエースである大陸に私はなってほしかったんだ。みんながエースになれるんだ。
停滞している場合じゃない。やろう。もっと輝こう。